第15話 アマチュア無線
資格マニアというわけではありませんが、行政書士以外にもいくつかの資格を保有しております。
取得順に並べると
・電話級アマチュア無線技士(昭和45年11月)
(現:第4級アマチュア無線技士)
・普通一種運転免許証(昭和52年8月)
・高等学校教諭二級普通免許状(理科)(昭和55年3月)
・第二種情報処理技術者(平成2年12月)
・マイクロコンピュータ応用システム開発技術者(平成4年1月)
・第一種電気工事士免状(平成17年2月)
・航空特殊無線技士(平成20年11月) <追記 2008/11/23>
といったところでしょうか。
情報処理とマイコン関連の資格は、月額5,000円程度の資格手当をもらえるので取ったまでのことで、業務とはあまり関係無い資格です。無論、持っていなくても仕事はできます。
業界はメチャクチャ忙しいので、正直言って受験勉強なんてする時間は無いでしょう。最近のは知りませんが、能力を正しく評価できるような問題ではなかったような・・・。
特に情報処理技術者の方は。
教員免許は、教員にならなければ無用の長物です。先般の法改正で、数年後には失効の憂き目にあいます。
<2009/9/7 追記>
教員免許は失効すると思っておりましたが、現在教職に就いていない場合には失効しないそうです。お詫びして訂正致します。
<以 上>
これらの中で絶対必要な資格は、運転免許と行政書士です。田舎暮らし故、車の運転は何かにつけて必要ですし、行政書士の資格を失えばオマンマの食上げです。
電気工事士は、省エネの仕事をしているうちに必要に迫られて取得しましたが、実際に作業することはあまりありません。
前置きが長くなってしまいましたが、私にとって初めての国家資格(以前は郵政大臣免許)取得がアマチュア無線でした。
アマチュア無線(以下、ハムと呼びます)との出会いは、小学校4年の夏休みでした。一週間ほど入院生活を送ることになり、その時父から差し入れてもらった
「子供の科学」という雑誌にハムのことが書いてありました。自宅に居ながらにして世界中の人と話ができたり、無線機を操作したりと何となく興味を憶えました。
退院してすぐに通信教育を申し込みました。日本アマチュア連盟主催(JARL)の講習会でも取れるとの事でしたが、何せ田舎のことですから講習会に通うこともままならず、
年二回の国家試験を受験することにしました。
届いた教材をみてビックリです。無線工学と電波法規の二科目ですが、小4の子供にとって難しい漢字や数式が一杯踊っているではありませんか!
電波法規は丸暗記すれば何とかなるとは思いましたが、無線工学の方はチンプンカンプンでした。
しかし、こりゃダメだと思わないのが私の性格です。とても楽観的に出来上がっているようです。
何が何でも身に付けてやろうと絵や図を中心にイメージで学んでいきました。しかし、どうにもならないのが計算問題です。
平方根や指数の計算など中学で学ぶ内容を理解していないととても歯が立ちそうもありません。
ハムの勉強と平行して、「初歩のラジオ」や「ラジオの製作」といった雑誌を買い求め、簡単な回路を自分で作ってみたりして理論と実践の両面で学んで行きました。
数学も解らないなりに繰り返し勉強していると理解できるようになるものです。小6の夏休みを過ぎた頃になると問題集の答え合わせでは70点以上の点数が取れるようになり、いよいよ10月の国家試験に向けてラストスパートをかけておりました。
ところが、いざ願書を出そうというとき祖父が「子供がそんなモン受けんでいい!」と大反対を唱えました。元々「百姓の子に学問は要らない」というのが持論の人で、
現代とは違って、一家の大黒柱はスーパーパワー(権力と財布を握っている)を持っておりました。どうしても受験料や熊本までの旅費を工面できずに諦めざるを得ませんでした。
そして受験のチャンスが巡ってきたのが、中1の10月の国家試験でした。タニシやウナギを採ったものを売ったり、新聞配達で得た金を貯金し、満を持して遥か熊本まで受験に赴きました。
首尾よく一発で合格し、その年の暮れには目出度く免許を手にすることができました。後に人伝で、祖父が「家の孫が国家試験に通った」と自慢して廻っていることを聞きました。
口ではあんなに風に言っていたのですが、内心は嬉しかったのだなと怨んだ気持ちも少しは薄れていきました。ただ、私が合格した翌年のCQ誌(ハムの雑誌)に「小6で最年少合格」
みたいな記事が載り、もし私が小6の時受験できていたら、その栄誉を得るチャンスがあったかも知れないことを思うとチョッピリ残念な気持ちもあります。
免許を手にしたら次は、いよいよ開局申請です。無線機を買う金も有りませんので自作することにしました。当時は、トランジスタは既にありましたが、真空管の最晩年期といった
時代でした。ラジオやテレビを分解すれば結構部品を再利用できました。近所の無線の先輩方から部品をオネダリして自作することとしました。
受信機やアンテナは既に作製済みでしたので、807、42といった真空管や手持ちの部品を活用するために、雑誌を参考にして自分で回路設計をしていきました。
無線局免許状の申請と平行して、VFO(Variable Frequency Oscillator)や送信機を夜なべしながらコツコツと製作しました。
正確な日付は忘れてしまいましたが、待ちに待ったコールサイン「JA6UBN」の無線局免許状を手にすることができました。
今まではダミーロードを接続して実際には電波を出すことができませんでしたが、これからは晴れてアンテナを接続して電波を飛ばすことができます。
ブルブル震えながらの第一声「ハロー、CQ、CQ、CQこちらはJA6UBN、・・・」とこのときの感動は今でも鮮明に思い出すことができます。
今から思えば、自作で楽しめる最後の時期でした。当時からSSB(Single Side Band)がかなり普及しており、3.5MHz(80mバンド)が比較的AM(振幅変調)が多いバンドでした。
SSBはとてつもなくハイレベル(雑誌に製作記事が掲載されることもありましたが、その内容や部品の価格などとても自分の手に負えるものではありませんでした。)に思え、
自作することは夢のまた夢みたいに思えました。さりとて高価なSSB機を買うことは叶わず、開局はしたもののアクティビティーは低いままでした。
それとVHF帯やUHF帯のトランシーバーや車載機が比較手的安価(といっても中学生に手が出る金額ではありません)に出回り、自作機が急激に減っていきました。
終段や変調管がこれこれでとかアンテナがといった自作の苦労話が通じなくなるにつれ、お話クラブ的な色彩が強まりました。
そうこうしている内、中3の中頃までには無線に対する興味が急速に薄れ、反比例するようにトランジスタを主とするエレクトロニクスの方に興味が出始めました。
簡単な回路を作って実験しては、壊しての繰り返しでした。ただ面白半分に遊んでいるだけでしたので、無線のように系統だった学びではなかったところが残念なことでした。
今から思えば惜しいことをしていたものだと思ってしまいます。
局免の方は、切れたり再取得したりで長期間維持してきましたが、平成14年11月5日の期限切れを以って閉局したままになっております。
何れどなたかが私が切らしたコールサインをお使いになられることでしょう。
高校時代も無線部などで暫らく遊んでいましたが、「大空への憧れ」の方が格段に強まってきました。
無線の勉強をして良かったと思うのは、内容もわからないものを何とか独力で身に付けることができたということでしょうか。
それと目の前に解らないことがあれば、何とかして解明してやろうといった精神(好奇心にも似た)を培うことができたことです。
そのことが物理や法律を学んだことやその後の開発者人生にも繋がっているものと思われます。
そして某国際空港の計器着陸システム(ILS)の開発などは、無線と飛行機が絡む仕事でこの上なく楽しく良き仕事ができたと思っております。
<追記 2008/11/23>
航空特殊無線技士は、自家用操縦士の訓練(「操縦訓練記(3)−航空特殊無線技士試験」)に必要なために取得しました。
2008/05/23新規
2009/09/07更新
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