第64話 「この道ひと筋」に生きること
「この道ひと筋に生きる」という言葉を親や教師から何度聴かされたことでしょう。
小さい時から幾度となく刷り込まれると、無条件に正しいと思い込んでしまいます。何の疑問も持たず、条件反射的にそのように生きなければと思い込んでしまっております。
偉人伝でもそのように語られますし、そのような生き方が色々な場面で誉めそやされます。
春と秋の叙勲などはこの典型的な例ではないでしょうか。確かに「この道ひと筋」で社会貢献をされてきた方々を褒賞することは意義のあることです。
しかしながら「この道ひと筋」で功成り名遂げてこられた方々は、そのような生き方をした結果としてそうなったのではなく、そのような生き方ができたからこそ、
そのようになることができたともいえるのではないでしょうか。
我々凡人は、努力してもそのような生き方ができないかも知れません。ましてや経済的な条件などで制約を受けることもあるでしょう。
しかし、次のような反論があるでしょう。
例えどのような逆境にあっても、それを乗り越え「この道ひと筋」に生きて成功した人がいる。はたまた「この道ひと筋」に職人の道を究め、この道では誰にも負けないようになった人もいると。
そのような例を持ち出して「あなたも努力しなさい。」、「努力しないのは、あなたが怠け者のせいです。」といわれることでしょう。
このようなモデルは、社会構造がシンプルな時には確かに有効に機能したかも知れません。しかしながら現代社会は複雑化・多様化し、かつ流動的であります。
このような現代社会にあって、かつての生き方モデルが有効に機能すことができるのでしょうか。
例えば、職人さんの例でいけば、大工さんなどはどうでしょう。私が小さい頃は、大工の棟梁さんといえば威厳があって何となく尊敬の眼差しを向けたものです。
しかし、現在の大工さんはどうでしょうか。一部の大工さんを除いて、今ではほとんどが何とかハウスにお勤めになっているか、仕事をもらっているのではないでしょうか?
これは、住宅建築が直接大工さんに注文していた時代からハウジング会社に注文する流れに変わったからに他なりません。
私も「百姓の子は百姓になれ」といわれて育ちました。しかしながら、その言葉通り百姓になっていたら今頃は借金漬けになって身動きが取れなくなっていたことでしょう。
百姓の子は百姓、大工の子は大工といったことに何の疑問も持たず「この道ひと筋」に生きることができて、何事もなく一生を終えることができた時代の生き方モデルなのではないでしょうか。
大工となるため懸命に技能を磨き一人前となっても、待っているのは効率優先の建築現場でしかありません。恐らくは、腕の見せ所を発揮することはないでしょうし、逆に邪魔になるかも知れません。
そこにあるのは、規格通りに施工し、工期を守り、安く仕上げる能力が優先されているからです。
それこそが時代の要請でもあるからです。これに乗り遅れたり、抗ったりすれば忽ちにして餓えてしまうことでしょう。
私は「この道ひと筋」に生きていくことを否定するものではありません。むしろそのように生きていきたいとすら思っております。
しかしながら、それを唯一の価値観として強要することには無理があるのではないかと申し上げているのです。
このような生き方を求められて苦しんでいる方も多くおられるのではないかと思われます。
この歳にして思うのは、大きなリスクを冒せないということです。若い時ならいざ知らず、この歳になってからできることは高が知れています。
それに先行きが不透明な時代において、一つのことに賭けるようなことはリスキーです。このような時代には、むしろリスクを分散することの方が重要ではないかと思います。
一つこけたら全てを失うようなことにもなりかねません。そのようなことにならないような生き方を模索する時代にあると思います。
このように考えるのは、私が生まれた1957年(昭和32年)が「しらけ世代」と「新人類」との端境期にあたるからでしょうか。
それとも私が、そもそも飽きっぽい性格なので、一つのことを何時までもやり続けることが苦手だからなのでしょうか。
2009/04/21新規
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